憲法調査会公聴会
日本国憲法に関する件

平成16年11月18日(木曜日)

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中山会長 これより公述人に対する質疑に入ります。
質疑の申し出がありますので、順次これを許します。松野博一君。
松野(博)委員 自由民主党の松野博一でございます。公述人の皆様、御苦労さまでございます。
 まず、御意見をいただきました順番どおりに、高竹公述人からお話をお伺いさせていただきたいというふうに思いますが、JCのOBは国会にも大勢おりまして、私も二年前まで地元の方で活動をしておりました。御苦労さまでございます。
 まず、高竹公述人の御指摘の中にあった、憲法の前文も含めて、書かれている言語表現が非常に日本語として違和感を感じるというのは、私も同意見でありますし、重要な指摘であろうというふうに思います。
 これはもう言うまでもなく、英文で書かれたものを日本語にその当時の訳し方で訳したことから発生をしておりますけれども、公述人も指摘をされていました伝統、文化、歴史観、こういったものは、母体としてその国の母国語によってなされるものでございまして、まず、この憲法を読んだときに日本国民が日本語として、母国語として違和感を感じるというのは、やはりそこに大きな文化的な、また伝統的な日本の考え方というものに関して、ベースとして、やはりその成立の過程において問題があったんであろうというふうに私も考えております。
 高竹公述人の方から、きょうお伺いした憲法観というのは、非常に概括的なお話をいただきました。私もおおむね同意見でありまして、現状の憲法が抱えている問題点、また、次に向かってどういうふうな新しい憲法をつくっていくかということに関しての手法論に関しては、ほぼ近い考え方を持っております。
 ただ、きょうは、特に若い世代の代表ということで高竹さんのお話を聞いた上で、さらに、若い世代の視点から、またJC活動というのは地域ごとにLOMの活動をベースとしてなされている活動でありますから、この地域の視点から、それぞれの視点から、現憲法が抱えている問題点といいますか、現憲法のこういった概念、コンセプトが若い世代の、わくわく感であるのか、それが期待感であるのか、活動であるのか、そういったものに制約を加えられている、もしくは、地域から見た場合に、例えば国と地域との関係でもいいですし、皆さんがやられているそれぞれの町づくりの視点からでも結構でありますけれども、現憲法の問題点というのをその二つの視点からお話しいただければと思います。
高竹公述人 まず、私は昭和四十年生まれですけれども、まさにもう日本の国が豊かになって生まれた世代です。戦後の民主主義教育をまさに受けて今日に至っているわけですけれども、青年会議所のメンバーも、来年になると昭和四十年生まれ以降のメンバーで構成されます。私と同じなわけです。
 まず、憲法の問題というのが地域間の中ではほとんど論じられてはいません。というのは、結局、我々も戦後の民主主義教育を受けているものですから、憲法に対しての着目点が多分ないんだろうというふうに思っています。日本青年会議所の中でこういった憲法の勉強会等をやっていくに従って、ちょっと待てよという話になって、今まさに、今私は全国各地を回っているんですけれども、大体の理事長さんの意見というのは、今の憲法はやはり現実的にそぐわないので改正すべきだというのは、もう八割、手を挙げますね。
 ただ、ではその具体的な中身についてというと、そこまでの議論は進んではいないという部分で、我々は、普通に考えると、どうしても戦後の教育を受けているものですから、基本的にやはり第二次世界大戦の敗戦ということを教育的に受けていますけれども、もっともっと、日本の歴史、伝統、文化、それから文明ということを考えると、単刀直入に言うと、日本人というのはやはり悪いことをしたんだという教育を僕らは受けているんですよね。ところが、やはり長い歴史を見ると全然そんなことはなくて、もっともっと我々は誇りを持っていい民族だというふうに思っていますし、そういったことを全国に伝えていきたいと思っています。
 よろしいですか。
松野(博)委員 先ほどのお話の中でも、今の高竹さんのお話の中でも、日本のいいところ、伝統、文化というお話がありました。前文、十三条を指摘されながら、まさにこれは日本国のアイデンティティーというものが感じられないというお話が先ほど公述の中にありましたけれども、日本国憲法というのは、当然日本国の歴史を土台にしながらも、そのときの世界的な平和思想、人権思想をベースとして、母体として持っているものでありますから、日本国憲法の中に、人類の普遍的な、人権を中心とした権利のものと日本国の固有のものがそれぞれあっていいんだろうというふうに思います。
 そこで、たびたび公述人のお話の中に出てくる日本の伝統、歴史のよいところが書かれていない、うまく表現されていないというのは、具体的に言うとどういうところなんでしょうか。
高竹公述人 まず、先ほども申し上げたように、戦後の教育を受けていますから、我々は結構考え方がアメリカナイズされているんですね。要するに、いろいろな話をするときには、言った言わないになるので文書を取り交わしなさいというふうに言われて、そういったところも無意識のうちに、要するに、アメリカ的な契約社会というかそういう発想の中で、今、日本社会全体がそうであるように、実は、日本というのは結構言い方によるとあいまいなところがよかった部分もあると僕は考えています。
 例えば、今アメリカとイラクの問題にしても、いわゆる宗教それからイデオロギーにしても、日本では、いわゆる宗教戦争というのは、基本的には千四百年前以上、千四百年ないわけですね。それは、例えば東洋と西洋の文化とか文明を融合でき得る力を日本人は持っていると思っています。
 明治の時代になりますと、和魂洋才という概念で、外国のものは取り入れるけれども、結局、日本人は日本独自のものにしてしまって、それを世界で誇れるものにできてきた歴史がありますので、そういったところは僕は日本人のすばらしいところだというふうに思っていますし、逆に、極端に言うと、神仏混交以来千四百年たっているわけですから、要するに、今世界に発信すべきは、そういった日本の、日本人の多様性がある考え方というのは僕は世界に発信するべきだというふうに思っています。
松野(博)委員 もう一点、各地域を回って、各地域のJCのLOMの理事長さんに憲法の問題について聞いたところ、八割が改正をするべきだという意見だったというお話でした。その理由が、現実と現状の憲法というのが乖離をしているからだというお話がありましたが、これは具体的に言いますと、どの点がどの程度乖離をしているとそれぞれ皆さんがお考えになっているのかについてお話しをいただきたいと思います。
高竹公述人 一番多く出る意見は、やはり第九条ですね。自衛隊を自衛隊と言っているのは日本人だけだと思うんですね。外国から見ると、これはもう完全な軍隊だというふうに思っていますので、そのあたりの実際の、要するに憲法解釈だけで進めている現状に対して、それが、青年会議所の場合は、自衛隊を海外へ派遣する、要するに、後方支援で協力するということが悪いというわけじゃなくて、憲法そのものの解釈だけでそれが動いているというのが理事長、全国のメンバーの意見としてはやはり一番大きいです。
 そういったところ、実際に平和というのは一体何なのか。我々は、生まれたときから平和でありました。これはひょっとしたら、ボクシングでいうと休憩の状態かもしれない。本当のボクシングの戦いというのは実は多分もう起こっていると思うんですけれども、僕ら自身が平和とは一体何かということをほとんど今まで考えてきていなくて、そういったところが日本国憲法についての一番の乖離をしているところだと考えます。
松野(博)委員 今のお話ですと、一つの例として、イラクにおける自衛隊の活動を挙げられましたけれども、そういった、今日本が必要とされている国際貢献を実行するに当たって現状の憲法が障害になっているんじゃないかということではなしに、そのことは置いておいて、現状の憲法解釈論において、今の実態とかけ離れているというか、わかりにくいところがあるんじゃないかというようなお話ですか。
高竹公述人 そうですね。要するに、解釈の議論だけしていてはいつまでたっても正しい形にはならないわけで、自衛隊に対する憲法というのもありますけれども、今の現状は、要するに全く憲法に対して解釈論だけで物事が進んでしまっている。だったら、それも含めて、憲法というものはどういうものか、どうあるべきかということを僕は議論するべきだというふうに思っています。
松野(博)委員 次に、首相公選制についてお聞きをしたいんですが、今回、高竹さんのお話の中では、首相公選制以外の部分を中心として触れられていました。しかし、JCの皆さんから上がってくるさまざまな意見の中で、首相公選制に関しては積極的な意見が多いように私は感じております。
 この首相公選制に関してどうお考えになっていらっしゃるか。個人的でも、JC全体としての方向性でも結構でございますけれども、お話をいただければと思います。
高竹公述人 正直申し上げて、議論としてはそんなにまだこの首相公選制については出てはいません。
 ただ、私見を申し上げると、一つはやはり議会制民主主義の形はちゃんとするべきだというふうに思っていて、これと首相公選制の考え方をしっかりと議論していかなければいけないというふうに思いますし、おっしゃるとおり、全国の青年会議所の意見の中には、かなりこの首相公選制に対しての賛成意見というのも多くあると聞いてはおります。
松野(博)委員 それでは、憲法個々の問題というよりも、今、若い世代の考え方、意識というのをお聞きしたいというふうに思います。
 先ほど日野原先生のお話の中にも、これから日本国民として、日本国民が掲げた理想に関して、どの程度それを実現化していくか、その決意が問われるときだ、それを問うていかなければいけないというお話がありました。私はそのとおりであろうというふうに思いますが、現在の若い世代が、世界の平和であったり福祉であったり、そういった問題に関して、日本の若者が立ち向かう決意といいますか意識がどの程度あるんだろうかというふうなことに関して、お聞かせをいただければと思います。
高竹公述人 若者というか、青年会議所は大体三十代が多いですから、三十代の中で申し上げると、まず一番我々が自分のこととして気になっているのは、やはり年金の問題ですね。我々が実際に今払っている年金が、我々がリタイアするときにこの制度は本当に続けられているのかなという部分は、我々にとってやはり一番身近な問題だというふうに思います。
 それも含めて、日本青年会議所の中では、これからの新しい日本の国を、本当に自立した国をつくるために我々が行動していかなければいけないし、そして、JCには国際青年会議所という国際組織、八十カ国で構成されている国際青年会議所がありますけれども、彼らともこの国際平和それから国際協力等についても、実は来週から福岡でこの国際青年会議所世界会議が一週間行われるわけですけれども、この中でもいろんな議論をしていっています。
 青年会議所として、本当に我々の世代がこれからの日本を背負っていかなければいけない、その責任と自覚をしっかり持っているということをお伝えしたいと思います。
松野(博)委員 もう一点、若い世代の多くの声を聞く立場にある高竹さんに価値観としてお聞きをしたいというふうに思います。
 現在の政治において、これは与野党を通してと言っていいかどうかわかりませんが、政策判断の基準が、自由競争、自己責任、小さい政府、これが正義になっている傾向が強いと思います。私個人としては、本当にこの自由競争、自己責任、小さな政府を政策判断基準として意気込んでやっていくことに関しては、しかし別の方面からの検討も必要ではないかというふうな意見を持っておりますが、こういった社会の価値観、今の政治の流れの政策判断の基準に対して、どういったお考えをお持ちですか。
高竹公述人 先ほどおっしゃられた部分の価値観については、それこそが僕はアメリカナイズされた価値観だと実は思っています。
 経済の分野で考えると、アメリカの経済学と日本の経済学を僕は一緒にしてはいけないというふうに思っています。例えば、自動販売機を道端に置いていて、ちゃんと中の商品が売れて、お金もそこにたまっている国なんというのは日本しかないわけです。田舎に行くと無人でとれた野菜を売っていて、そこに買いに来る人がいて、ちゃんとお金を払って帰る。私は、日本人同士というのは、ある種長い文化、文明の中で培われた信頼関係がちゃんとあるというふうに思っています。そこにアメリカの経済学というのは僕は基本的には当てはまらないと思います。
 こういう話をすると、では、極論を言うと、要するに鎖国をするのかというふうに言われる方がいますけれども、今日、今の状況において、日本を除いての国際社会というのは僕は考えられないというふうに思いますので、アメリカの契約社会的な発想をそのまま日本の価値観として受けとめるのではなくて、我々のもともと持っていた価値観をもう一回やはり見直して、我々独自の経済というのも考えていかなきゃならないというふうに考えます。
松野(博)委員 高竹公述人に最後の質問であります。
 総括としてまとめられているのが、新しい価値観、また、日本の伝統的な価値観にのっとった新しい憲法を創造していかなければならないということで結ばれていますけれども、新しい憲法をつくっていくということが、日本の元気といいますか、皆さん方の世代が未来に持っている理想としての国家像、社会像に関して、憲法改正というのが推進する大きな要素になるというふうにお考えですか。
高竹公述人 日本国民は、この憲法、我々の国の形、我々の国はやはりどうあるべきかということを国民全体が議論することに対する、まずは新しい憲法をつくっていく意義が私はあるというふうに思っています。
 その国民の憲法に対する議論を、日本青年会議所としては本当に全国的なムーブメントを起こしていきたいというふうに思っていますし、また、その中でつくられた新しい我々の国の我々がつくった憲法が、これからの日本の社会に対してより発展を約束できるものだというふうに考えます。
松野(博)委員 次に、寺中公述人にお話をお伺いしたいというふうに思います。
 先ほどの公述人のお話の中で、人権はだれのものかという部分のお話で、パワーを持つものは権利を保護する義務があるというお話がございました。ここで公述人がお話をされているところのパワーを持つものというのは、当然国家はそこに含まれると思いますが、国家以外にこのパワーを持つものに含まれる団体はございますか。
寺中公述人 ここで申し上げておりますパワーを持つものといいますのは、要するに、弱者、強者の相対関係における強者という形になります。
 委員御指摘のとおり、国家、いわゆる公権力というものはそれに該当するものですけれども、それ以外にも、企業あるいはその他の団体でこういう形で強者になる可能性のあるところもありますし、それから、個人でも弱者、強者という関係は当然発生するものではないかというふうに考えております。
 こういったような、公権力を基本とする、あるいはほかにもさまざまな企業、それから場合によってはメディア組織等も含めたそういう強者の立場に立つところが、それよりも弱い立場のところに対して何かをするという場合にこのような義務が発生するんだというふうに考えております。
松野(博)委員 憲法調査会の人権分野に関する議論の中でも、今、現代社会における人権の保護というのは、国家と国民という形だけでなく、公述人がおっしゃられたところの、例えば企業でありますとか団体でありますとか個人間同士でありますとか、そういったところまで広げて論じていかなければいけないという議論がありましたが、こういった考え方に関して、憲法において、具体的に言うと、どういった取り上げられ方が必要であるというふうに公述人はお考えでしょうか。
寺中公述人 まず一つ目は、何といっても、一番この義務が強いのは公権力、すなわち国家であろうというふうに考えております。その関係で、公権力のそのような義務をきちんと監視する機関として人権擁護機関というものが必要であろうというふうに考えておりまして、この人権擁護機関は、したがって公権力の一部として設置されてはならない。
 現在、人権擁護法案というものがいろいろなところで議論になっておりますけれども、この人権擁護法案の中で、聞くところによると、依然としてまだ法務省の外局としてそれを設置するというような考え方が多数を占めるというふうに聞いております。このような考え方では十分に公権力のチェックはできないというふうに考えてはおります。
 しかしながら、委員御指摘のとおり、その他の企業とか、それから団体とか、そういったようなところの問題というものもございまして、これに関しましては、特に企業に関しましては、現在、国際的な人権基準としてガイドラインが制定されようとしております。ノームスというふうに呼ばれておりますけれども、多国籍企業及びその他の企業の行動に関する道徳規範と呼ばれるものでございますが、この道徳規範などのきちんとした敷衍化といったようなものから大体その次の一歩が始まっていくだろう。
 それからまた、憲法の私人間適用というようなものに関して、きちんとした法制度の部分での整備というものが必要であろう、そういうふうに考えております。
松野(博)委員 次に、寺中公述人のお話の中での表現の自由に関してお話をお聞きしたいというふうに思います。
 表現の自由が民主主義を構成する重要な要素であるというのはだれしもが認めるところであるというふうに思いますが、公述人がここでおっしゃっているところの表現の自由というのは、政治的、文化的、芸術的、すべての分野に関するものを含めての表現の自由という言い方なのかどうか、それに関してちょっと確認をさせていただきたいというふうに思います。
寺中公述人 さようでございます。すべての分野における表現の自由ということになります。
松野(博)委員 私も、当然あらゆる分野、芸術分野、創造的な分野においても表現の自由というのはしっかりと守られていかなければいけないということはもちろん同意見でございますけれども、一方で、マスコミの発達による絶大な影響力の問題、また個人としても、インターネット等の発達によって、個人が情報発信者として非常に大きな力を持つような形も出てきております。
 そこで、表現の自由という基本はしっかりと守りながら、しかし、この表現の自由の乱用というものに関しては気をつけて慎重にしていかなければいけないんじゃないかなというふうに思っている分野であります。
 私が今からお聞きをすることは、公述人が公述の中で御指摘があった政治性のある問題とは若干離れますので、そのことを踏まえてお聞きをいただきたいというふうに思います。
 例えば、創造性、芸術性と言えるかどうかわかりませんが、マスメディアの中で今、子供たちが見ているような時間帯に、セックスシーン、暴力シーン等を初め、そういった問題がある映像が垂れ流しになっていると言ってもいいような状況だと思います。私は、子供たちの健全な発達を考えたときに、これはある程度しっかりと規制をしていくべきじゃないかというふうな考えを持っておりますけれども、寺中公述人は、表現の自由の問題と公共性の問題、こういったことに関してどのようなお考えをお持ちか、お話をいただきたいというふうに思います。
寺中公述人 表現の自由に関しましては、その制限事由として、日本国憲法の中では公共の福祉の制限を受けるという形になっておりますが、この公共の福祉の概念は、みんなの利益、そういう概念として理解されるべきだろうというふうに思いますし、また国際的にも、表現の自由が完全に、つまりいかなる制限も受けない、そういう権利であるというふうにしては考えられてはおりません。
 すなわち、どういう場合にはそれが例外になるかといいますと、嫌悪発言とか嫌悪犯罪といったようなものに関しましては、いわゆるヘイトクライムあるいはヘイトスピーチと呼ばれるものですが、他の階層に対する差別的な発言であるとか、そういったようなものを表現の自由のもとに擁護することはできないというのはほぼ一致した見解になっているのではないかというふうに考えます。委員御指摘のような部分とは、今の話は若干位相が異なりますけれども、表現の自由に対する制限という意味では共通性があるのではないかというふうに考えます。
 それから、委員御指摘の部分に関しましては、基本的には、例えば子供の見ているような時間帯にいわゆるさまざまな過激な描写というものを流すことが適法かどうかということに関しましては、それはどういう形で規制するかという規制手段によって多分判断が異なってくるのではないかというふうに考えます。これを非常に強い形で規制するというのは、基本的には、子供の選択権まで含めた形でそれを否定することにもなりますので、また新たな権利侵害を発生する可能性すらあります。したがいまして、そこでは極めて慎重な判断が下されなければならないのではないかというふうに考えます。
 私の方の言い方としては、規制が適法か違法かというのはその手段によって変わってくるであろうという形で言わせていただく形になると思います。
松野(博)委員 表現の自由の問題と、先ほど寺中さんが人権はだれのものかという中でお話をいただいた、例えば受刑者、被害者、こういった方々の権利の問題もあわせて、個人的に興味がある分野なのでお聞きをしたいというふうに思います。
 日本の場合、犯罪が発生したときに、警察が逮捕をした時点で実名報道が始まります。逮捕時点から実名報道でありますから、いわばマスコミによって、何ら司法判断がなされない前に社会的制裁が始まっていると言っていい状況でありますし、これは人権上非常に問題があるんじゃないかというふうに考えております。
 諸外国においては、最終的に犯罪が確定、罪が確定するまで実名報道しないところもありますし、確定をしても実名報道しないところもあったかと思いますけれども、現状の犯罪容疑者に関しての日本の報道のあり方に対してどういう御意見をお持ちか、お話をお聞かせください。
寺中公述人 御指摘のとおり、本来は、刑事裁判の手続は、まず無罪推定の原則というのが最初にございまして、どのような被疑者であろうとも、裁判で確定するまでは無罪であるということが推定されているということになっております。しかしながら、現実の世界では、この無罪推定原則が数々、いろいろな場で破られているというのが現状でございます。
 しかし、この無罪推定原則というのは、ひとり憲法に規定されているのみならず、国際人権上もきちんとしたガイドラインとして既に確立しているものでございまして、特に国際人権上、この無罪推定原則をどの程度まで敷衍して考えるかということに関しましては、いろいろ議論があるところではありますけれども、私どもとしては、捜査段階まで含めて無罪推定原則は貫徹されなければならないというふうに考えております。
 そういう意味では、委員御指摘のような形で、捜査段階で実名報道をされ、そしてその人々の人権が侵害されるような状況というものは決して好ましいものではないということを私どもの方としてはやはり指摘したいというふうに思います。
松野(博)委員 ありがとうございました。
 次に、日野原先生に御質問させていただきたいというふうに思います。
 私は、先生のお書きになられたものを何冊か読ませていただきまして、先生の医療現場を通した患者さんに対する、また個々の人生に対する非常に深い思いに感動いたしまして、きょう、先生から直接お話をいただき、質問させていただくことは大変光栄でございます。ありがとうございます。
 先生の先ほどのお話の中で、日本国憲法の前文において、日本はいわば幻と言っていいような理想郷を提示して、この実現に向けて日本の国家全体として邁進をしていくんだ、そういう誓いを立てたんだから、それをあえて、もう一度さらに、現実に今後もこれに立ち向かう気があるかどうか国民に問う必要があるというお話をなされました。まさしく、その問いかけというのは、現状、日本国民に対して行うべきものだというふうに思いますが、現在の日本国民に、先生がおっしゃられた、憲法の前文にある世界の理想を実現していこうということに関する思いを日本がしょっていくんだという覚悟がおありだというふうにお考えでしょうか。
日野原公述人 一般の人は憲法をみんな読んでいないんですよ、本当に読んでいない。このごろは、出版社からこういう子供向きに憲法なんか出て、わかりやすく出してはおりますが、しかし、一般にはほとんど何も知らないですね。それを読む必要がないからというんでしょうね。つまり、ある意味で安全性があるからというふうな甘い考え方でそこまで議論にはなっていないんですが、今度の事件で、本当に私は、みんなが考えなくてはならないということ、ただ、政治家だけでは意味がないから、もっと、どういうふうなことかということ。
 それから、このときには原爆が出たから、もう世の中にはこんなものが出たら戦争できないというふうにみんな決定的に思ったんですよ。ところが、もっともっと強力なものが出て、強い武力があればもう平和が来ると思っていたんです。ところが、強い武力はもっと強い武力があるから、だからもうそれがなければ平和になるんだけれども、だんだんだんだんとそういうものを考え出したんだから、私は、やはり武力では抑えてもだめだと言うんです。そこでじっと子供は、抑えている側はわからないけれども、どこかで反抗しているわけですから。だから、武力で武力を制することでは平和は来ない、戦争が起こらないという時代は来ないと思う。だから、別のアプローチで平和を私たちは願わないとというふうな物の考え方がもう少し普及すればいいと私は思います。
 それで、ベトナムがあれだけ、十六年も戦争をあの小さな国でやったんだけれども、日本も、信州にヘッドクオーターが行って地下ごうで頑張るつもりだったんですが、余りショッキングでしたから、もうだれもだめだというふうに考えざるを得なかったわけであります。
 私は、簡単にあそこで、原爆のためにもうだめだということと、もうあるがままにやればいいということと、やはりアメリカ式の、アメリカというのは非常に自由な国だと日本人は思っていましたから、そのような自由な国が来て日本のために助けてくれるんだったら非常にいいなという。そして、日本の学校でも、いろいろな教育機関でも、日本の福祉でも、外国人が来てやったんですよ、全部。日本人じゃないんですね。そういうことで、外国に対するある意味の信頼があったんでしょうね、そういうふうな人から。だから国民は、ではそのとおりやればよいというふうに極めて簡単に受けたんじゃないかと思うんですよね。
 ところが、今の外国と、明治、大正時代の外国とは違って、あのときにはミッションを持っている人が来たんです。ところが、今は商売のために来るんですから、全然違うんですね、やり方が。だから、そういうふうに、今は外国へ行っても商売がファーストなんですから。それでも、たまにありますね。アメリカの商社の人が聖路加に来て、何か仕事をしたいので、もしも成功すれば一%は寄附しますなんというようなところもまれにはあるんだけれども、一般に商魂たくましい人々が進出するんだから、前のようなミッション的なものは全然ないわけですよね。だから、外国に対する日本人の考えも大分変わってきたんです。もとは、あるいは戦前は尊敬をするという気持ちがあったんですね。今は必ずしもそうじゃない、ライバルだというふうな気持ちですから。
松野(博)委員 それで、先生がお話しいただいた以外のところの質問になってしまいますけれども、先生は、言うまでもなく、長年にわたって医学界に御貢献をいただいて、その中で大きな技術的な進歩というのがこの六十年間にあったかというふうに思います。現在、革命的と言っていいような生命に対する技術進歩がございまして、バイオテクノロジーの発展によりまして、DNA、遺伝子操作の問題もございますし、また一方で、尊厳死、人間の生と死というものに関してどう考えるかといった倫理的な問題も今いろいろと協議をされている状況でありますけれども、新しい技術の発展に伴って生じてきた生命観、生命倫理観に関して先生がどのようなお考えをお持ちなのか、お話をお聞きしたいというふうに思います。