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桜の花の下で生きたいII

お陰様で両親、兄弟が元気(両親は相当弱っているが)なので、本当に身近な人の死に立ち会ったことがない。両祖父母はかなり前に亡くなったが、生活をともにしなかったので悲しいけれども喪失感はなかった。しかしながら前にも書いたが、職業柄お坊さんよりも葬儀に出るので「人は死んでいくものだ」というリアリティは強い。


昨年はコンピューターメーカーで画期的な製品を多く生み出した企業であるアップルの創業者のスティーブ・ジョブズが亡くなり、伝記や語録が数多く出版されベストセラーになった。人生の可能性に挑戦する力強い言葉が並んでいたが、その中に「人は生まれ、ほんの少し生き、死んでいく。ずっとそうなんだ。」という言葉があった。事業に成功し巨万の富を築きながら、働き盛りで不治の病のために家族やまだやり残した仕事を残して死んでいかなければならなかったジョブズが、あらためて自分の生を見つめ直して放った言葉は重い。虚無的であり、哲学的であり、単純で、枯れている。そしてまたジョブズは「死は最大の発明である」と語っている。人類が進化し、リニューアルしていくために必要欠くべからずな事であると。


僕自身は、特定の宗教的見地からの死生観はないけれど五十歳近くになって、自分も自分の生きてきた年月と比較してもそう遠くない時に必ず死んでいくんだということが頭から離れなくなった。二十歳の頃、自分がやがてこの世から居なくなるんだということなど思いもつかなかったのに。


年をとるにつれて死に対する恐怖心は薄らいでいくのだろうか。先輩方に聞いてみたいが、聞いてはいけないことのようで。仏教学者のひろさちや氏の著作の中に「死後の世界があるか、ないかの議論は意味がない。正しくは死後の世界はあるべきか、否かだ。」とあるのを読んで「なるほど」とひざを打った。死んで生き返って来た人はいないのだから、検証できない議論をしてもしょうがない。


「死後の世界(天国でも浄土でも極楽でも何でも)はあるべきだ」と僕は思う。そうでなければ現世の不条理を説明することが出来ないし、自分を律していくことも難しい。御先祖様や歴史上の偉人に会ったり、話を聞く楽しみもある。きっと生ビールもあるんだろう。この世に残った人たちも「あの世で楽しくやっているんだろう」と思えば気も楽になる。トマス・アクィナスの「神の存在」の証明のような精巧な理論はこの際置いておいて、とりあえず「あるということで・・・・・」でいいのではないかな。ジョブズのように「死は最大の発明だ」とまでは達観できないが、すべてのことはリセットされると思えば、「小さいことにくよくよせずに気楽にいくか」という気にはなる。残りの日々で「やりたいこと」、「やらなければならないこと」、そして子供が自分でメシを食べられるまで頑張らなければと思う。


先般、小さな田舎町で、小さな葬儀にでた。参列者は家族と親戚と村の人々。極々普通の地味な葬儀だった。淡々と式が進み、葬儀の最後のお棺に花入れの儀式の時に、皆が「お父さん、ありがとう」、「おじさん、ありがとう」と言いながら花を入れていた。「ありがとう」と言われながら送られる。こんな旅立ちもいいな。できるかな。

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